埼玉県飯能市の昔話 の補稿

調査用のメモ帳に残っていたものなど。

岩沢側線について

岩沢に居住していた外国人労働者について

外国人労働者とは、半島の人のこと。砂利の運搬に馬を用いたことからもわかる。

補:「近所付き合いが良好だった」と書いたのは、岩沢の外国人労働者とは"不思議とうまくやっていた"という証言から。不思議と。

運搬物資

貨物は主に川砂利であるが、木材を運んだという話は聞かなかった(メモにも記憶にもない)。

戦時中、元加治近くの東洋レース工場から、軍需のカーテンや布を巻いたもの縦にし、貨車に載せて運んだとの証言がある。ただし、元加治から運んだかどうかは確認が取れていない。

車両について

トラ(17t)やトキ(30t)でも運搬したことを示唆するようなメモ書きがある。15t貨車の話が中心だった気がする。

昭和初期には小さい蒸気が運用されていたという。高崎ニッケル鉄道の汽車と同じだと証言。

天覧山駅について

「病院の見舞い」という文章があるが、病院とは----だという。

蛇足:----と言えば、八高線六道踏切南西側に、明治時代は----があった、出所は失念。

天覧山駅は(Wさん)という方が担当していたとのこと。その方の息子さんは下原貨物駅(ジョンソン基地:現入間基地)の駅員。

(Wさん)は退職後、天覧山の麓で商売を始めたと証言。

私の手元に、近隣住人が飯能第一小学校の子供に手渡したとされる資料がある。天覧山駅南側の石段の写真あり。

雑感:公にされている資料はほとんどなく、個人の私物に依るところが大きくなるだろう。

元機関士エピソード

入間川には弁当箱がたくさん沈んでいる。

機関車の運転士が仲間の弁当を届けるのだが、へそを曲げることがあるとそうして川へ放り投げたり、通過駅で弁当を受け渡す際も、 わざと足元に叩きつけてやるのだという。弁当箱を足で蹴られて容器が変形したこともあったという。

とにかく運転士の機嫌を損ねると列車を運転してくれない(=相手が処罰対象)、連絡があっても窓を開けてやらない等の話からすると、運転手はかなり上位職なのだと思う。

「そうやって大人になっていくんだよ」とのこと。

時代、その他証言

注釈:御本人及び御家族の方には大変申し訳ないのですが、高齢ということもあって上記証言の実際は、あったかもしれないし、なかったかもしれません。

マンガン坑道関連、その他